ところで、北京から出て、瀋陽、ハルピンという満州の大都市で、ぼくは女たちの足を仔細に観察してみたが、ついに纏足の痕跡をそこにみとめることはできなかった。纏足は元来漢民族の習慣だということは知っている。しかし満州人の政権清朝でも、名君康熙帝や乾隆帝が禁止令を出しているくらい、それはこの地でも十分流行していたらしいのだ。またもちろん、戦後その風習が完全に途絶えたことも知っているが……だが、冗談ではないのだ。
ここが白髪三千丈の国であることを忘れちやいけない。そもそも纏足は、唐代のあと五代(九〇七から九七九年)に始まり、以後十世紀の間、中国の女たちの足をゆがめつづけた道理である。十世紀の間……ある推定では、纏足の女たちの総数は、その間じつに三十億にのぼるという。
30億人の女たち! 60億本の纏足!
一体、習慣は遭伝子に組み込まれるということくらい、誰だって知っている。日本人の、地べたに座する不活発な長年の習慣が、サバンナを駆けめぐるアフリカンの足とどう違う足をもたらしたかは、たった今、ズボンを下ろし、スカートをめくりあげてみるだけでよい。ではなぜ、この《纏足》については、三十億というめまいのしそうな物量の意味する習慣の下、遺伝子レベルに浸透しなかったのか? すなわち「生まれついての纏足」という奇跡が、なぜに全く起こらなかったのか? 異常な記述癖の中国人も、これだけは書きもらしているとでもいうのだろうか?
奴隷たちの子孫は代々
背骨がまがってうまれてくる。
やつらはいふ。
『四足で生れてもしかたがなかった』と(金子光晴)
とくに纏足については、十世紀で三十億人ではまだ不足なのかもしれないし、纏足が夫婦交合において、女の側だけというのも引っかかる。だがどうやら、適者生存の原理からすれば、纏足には相応の進化圧が働かなかったことが何よりの原因のようだ。たとえば馬が、足の指の四本を失い、第三指だけが強固な蹄と変じたのは、その方が速く走り生きるのに好都合(適者)だという《進化圧》が働いたからだ。十分な進化圧に因れば、どんな奇怪な形態も可能だということは、動植物の生体図鑑をちょっとめくってみれば明らかだろう。むろん「十世紀」は進化には短すぎる。しかし、期待は持てたはずなのだ。
結局のところ、纏足がひたすら女陰の引締めのためにだけ援用されて、その優れた独自の価値を見出されなかったことに尽きるのだ。少女期の脱臼の後、足の甲の筋肉そのものを鍛錬し、《走行用纏足》を案出することが、人体に新たな進化圧として働く可能性はなかったのか。つまりは男どもの助平根性が、宦官をオカマにする程度にも満たず、女たちの畸形を三十億つくり続けたに過ぎなかったのだろうか。
そこで満州の女たちの足。
三十億人の先祖を持つ六十億本の足の子孫。
彼女らの足が、眩しく、匂いやかに、大気に触れて、喜びに満ち、こんなにもけしからず溌刺と街を闊歩するのは──それらがばかに新鮮で、真・善・美みたいな健康をぷんぷん発散してやまないのは──灰色の人民服の下からつい最近それらが姿をあらわしたからではなかった。
彼女らの祖母や曾祖母やそのまた祖母が、いくら纏足をしたって、そのいびつな皮の下からやっぱりはち切れんばかりの真っ直ぐな足が現われてしまうのだ。まるで《天足》という種が、《纏足》という種を、ついに駆逐して絶滅に追い込んだというように、ほんとうに生命の勝利を楽しく謳うように、満州の大地を、女たちの物凄い足が歩いていた。
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