死者は二度死ぬ


火の弔い


 死者は死んでから生きはじめる。


 生前の容貌は、一晩で変わり、二日目にはもう最初の蠅が卵を産みつける。そして腐敗の息吹が、体内のどこかに起こると、まもなく肉体を花園として、やるせない臭気を発散しながら、ついに豪華絢爛な変貌がはじまる。


 その激しい変貌は、生者以上の生きざまを見せつける。死とはもっと静かなものではなかったのか? そこで生者は、そんな死者に、新たな生命を読むことになったとしても不思議ではない。ところがそれは、物言わず腐りつづける、ずいぶんまがまがしく厄介な生き物であることこの上ないのだ。


 火葬という儀式が、もともと、腐敗菌との競争だったとすれば、高温多湿な熱帯圏から起こったものにちがいない。火葬を意味する「荼毘(だび)に付す」の「荼毘」は、パーリ語起源ということである。世の通説によっても、どうやら火葬はインドにはじまったものらしい。


 ところが、そのインドのヒンズー文化を受け継いだバリ島では、この厄介な死人という化け物を、一年も二年も生かしたままにしている。
 理由は、火葬の祭典が、バンジャール(村)をあげての盛大なものになるため、死人を出した一家族では、とてもまかなえない。そこで数家族による共同葬儀ができるまで、てごろな数の死者が集まるのを待つのだ。
 死者たちは、村はずれの高床式の小屋の中で、いつかヒンズーの聖なる牛の棺に入れられて、腐敗菌でむずがゆくふくれあがった自分の体に、火がはなたれる晴れの舞台を夢見ながら、半年、一年、二年……じっと待ちつづける。


 その死者というまがまがしい生き物に、とどめを刺すのが火の弔いだ。


 それにしても、腐敗菌との競争など、ここではどこ吹く風だ。死者を一年も二年も生かしつづけるというのは、これも一種の恩寵ということだろうか。


 火の弔いによって、死者は二度目の生を閉ざされる。


 死者は二度死ぬ。


葬列弔い見る女

写真上 :牛の柩とともに焼ける屍。バリ島バンリ村
写真下左:葬列
写真下右:弔い見る女

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