廃人のいる風景


スマトラ島パダン

  
    

 もともと自然の美しいところは、世間で普通に期待されるような意味では、河も海も美しくない。そこにエコロジーなどという発想がないからである。河川に糞や尿など垂れ流しだし、そこに意外な異物がうち捨てられていることも珍しくない。


 だが人はその同じ河で洗濯はするし、行水もする。サンパンという舟を浮かべて生活もする。そこでは水の《青》さえ最良の色とはいえない。茶色に濁っている河は栄養分に富み、人々はおいしい魚がとれると知っている。


 よくある絵葉書のような、無菌室な美しさだけが「美しい」といわれるならば、ずいぶん美の観念は堕落したものだ。東南アジアでは、巨大な廃棄物も、河や土に還ろうとして美に協力する。それは違和ではなく調和なのだ。






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東ティモール
 

 あるカメラの蒐集家は、古いライカやコンタックスを集めてはいても、それで写真など絶対撮りはしない。空シャッターも、部品が摩耗するとかで断じて押さない。単に飾ったり、手に取ったりして喜んでいるのだが、それでも動かない壊れたカメラでは、たとえ名機であっても許されないらしい。ちゃんと機能しなければカメラではないのである。


 生活品と廃物との違いが《機能》にあるのはたしかだと思うし、その機能が生命なのだと思うが、逆に廃物となって機能=生命を失うことで、新しい生命を感じ取ることも出来なくはない。新たに廃物という意味=生命が芽生え、そうしてそれは機能品とちがって、ただそこにあり続けるだけでいい。それだけで異風を顕わすだろうし、やがて近寄りがたい妖気をかもし出すことになるかもしれないのだ。昔ならばそれはもう妖怪○○○である。





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 東南アジアで、河川敷や道ばたにさりげなくころがり、土にかえるのを待つ廃物の極みが《廃人》だろう。戦争か悪運かで機能を奪われた人間の廃物。だが手足の機能を失うことで、新たな廃物としての彼らの生命は、その堂々とした異風に顕われて近寄りがたい。


 なぜ人が《廃物》や《廃人》のたたずまいを恐れたり、それに惹かれたりするかというと、それはたぶん、われわれ常人の肉体も万事《機能》だけで出来上がってはいないことに、秘かにわれわれが勘づいているからではあるまいか。
 体毛を「むだ毛」と表現したり、尻尾のなごりが出っ張っていたり、まっすぐあるはずの足がOやXにゆがんでいたり、シミやソバカスが顔に模様を付けたり、これらは全部《機能》とは別の問題だ。歯の数、あばら骨の数や、指の数なども、最高度の必然性をしめしてはいないという理由で《機能》的ではない。「指はなぜ五本でなくてはならないのか?」


 そればかりではない。そもそも人間の顔や体のつくりがいちいち違うこと自体が、《機能》とはまったく関係ない問題だと言わねばならない。
 しかもこうした《機能》とは関係ない部分こそが、じつは人間が一番触れられたくない部分でもあるし、また逆にそれほど問題になる部位なのだ。
 だから《廃物》に対しては、まだモノとして突き放した我慢ができても、《廃人》となるとそうはいかない。人は自分の内なる《廃人》を彼らに見てしまう。そして彼らに歯をむき、できることなら彼らを目のふれないところに遠ざけたい。
 それは本当は潔癖な《機能》の世界から弾劾された、自分の顔のしわや曲がった鼻を認めたくない一心なのだ。


 ところで誰でも自分のくさい体臭に酔うことができるし、《機能》への異議申し立ての気持を持っている。町の廃人に心惹かれる逆説は、特にむずかしいことではない。
 一体《廃人》のいるたたずまいほど落ち着くものはない。機能美などというが、《機能》だけで出来ている町がどんなに浅薄なものかは、いわゆるテーマ・パークの類を見ればわかる。(ディズニーランドになぜ《廃物》がないのか、なぜ《廃人》がころがっていないのか?)


 《廃物》や《廃人》と出会える楽しみ──東南アジアに行くとは、つまり自分の内なる《廃人》がよみがえる時だ。


地雷後のシエスタ
写真上:インドネシア・スマトラ島パダン
写真中:東ティモール
写真下:カンボジア
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