私たちは身銭を切って演劇を見た後、改めて恣意的に観劇料金を決める。これが楽座風餐である。価格は価値の合理的指標と考えられており、その信用なくして一刻たりとも経済は成り立たない。観劇料においてもその約束事は適用され、価格が決定され、チケットに表示され、観客はその額を支払う。
しかし、演劇という生身の人間の行う一回性の表現行為に対してあらかじめ価格が定められることに、表現者の意識が激しく抗うことを私たちは知っている。なぜなら、価格と演劇表現とは、等価な交換が不可能な、イラショナルな関係で悲喜劇的に対峙しているからである。
楽座風餐は価格が持つ無言の権力性に対して、扇情的な意識を際立たせる。それによって、価格が要求する演劇的価値の平準化に対抗し、演じる者、見る者双方の内なる個人の演劇経験の復権を目指す。私たちは楽座風餐によって、演劇が価格を実現していく、それを行為する。
さあ、芝居の幕が開く。私たちが支払った料金は、目の前にこれから起こる1回限りの舞台のリアルな現場に臨む参加料に置き換え、すべてのハプニングの後に、改めて私たち自身の価格を提示するだろう。